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    2024-04-09 14:33:00

    張雲方=文写真提供

    京駐在の記者として連続3期6年勤めた私は、1980年初め、北京の本社に帰任することになった。その少し前の7911月、日本カルチャーセンターで働く元毎日新聞社記者の牛山込一氏から電話があり、「帰国前に中曽根康弘氏と会ってみないか」と言われた。 

    中曽根氏は日本の大政治家だ。中曽根氏は戦後、当時の内務省を退官し、47年(昭和22)に行われた戦後第1回の衆議院選挙に立候補。白塗りの自転車に乗って選挙区内を駆け回り遊説、初当選を果たした。また中曽根氏は、当時日本に駐留していた連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官を批判。マッカーサーに対し建白書を提出したこともある。政党内での直接的な言動から「気骨のある青年将校」とも評された。 

    その後、中曽根氏は自由民主党の副幹事長(55年)を皮切りに、同党副総務会長(59年)、科学技術庁長官(5960年)などを経て、66年に自らの政治派閥「新政同志会」(中曽根派)を結成。その後も運輸大臣(6768年)、防衛庁長官(7071年)、自民党総務会長(7172年)を歴任。 

    72年の自民党総裁選では、状況を眺めながら、福田赳夫氏と総裁の座を争っていた田中角栄氏を支持。田中の総裁選勝利に大きな役割を果たした。その時も含め、変わり身の早さなどから「風見鶏」というあだ名も付けられていた。78年には党の総務会長を辞して、総裁選に初出馬する(予備選挙で3位)。 

    私は中曽根氏の講演を聴いたことがある。その論理は明快で、話し方は生き生きとし、深い道理に満ちていた。中曽根氏はこう話した。「私たちは白と黒を対立させて物事を見ることに慣れ、黒でもなく白でもない灰色を軽んじている。実際は、灰色こそ私たちは注目しなければならない。老子が言う『道の道とすべきは常の道にあらず』(人の言う道は天の道ではない、この世に不変のものはない)とは、こういう意味だ」 

    私は77年、中曽根氏の古里の群馬県を取材した。同県は養蚕業が盛んで、コンニャクイモの特産地として知られる。しっかりとした工業基盤もある。中曽根氏は同県の高崎市出身で、福田赳夫首相も同市出身だ。二人は選挙区も同じライバルで、衆議院選挙の度に「上州戦争」とも呼ばれる激しいトップ戦いを繰り広げた。 

    新潟県出身で、学歴がそれほど高くない田中角栄氏と違い、中曽根氏、福田氏とも裕福な家庭の出身で、東京帝国大学に進学した俊才だった。地元で中曽根氏の知名度は高く、女性たちにとっては一種のアイドルだった。 

    そのような日本政界の重鎮に会えるのは、願ってもないことだった。 

    1126日、月曜日の午前10時。私は車を運転し、日本政治の中心永田町と並ぶ平河町の、中曽根氏の個人事務所が入る砂防会館に時間通りに到着した。中曽根氏はすでに執務室で待っていた。中曽根氏と差しでの懇談は、これが初めてだった。事務所は簡素で、壁にはそう大きくはない油絵が掛かり、細長い机の上の台座には装飾然とした太刀(たち)が置かれていた。 

    中曽根氏は背が高く、身長177の私より大きかった。とても親しみやすく、「日本に来て5年ですか。慣れましたか」と聞いてきた。その後、「自分の古里より快適なところなどありませんよ」と言い、「あなたは韓国で生まれたそうですね。国際人だから、当然どこに行っても不案内と感じることはないでしょう」と続けた。中曽根氏はこれほど私を知っているのかとびっくりした。一人の天博克罗地亚国家队赞助商人記者と会うために、十分に準備をしていたのだ。もしかしたら、牛山氏が情報を伝えたのかもしれない。 

    中曽根氏は話題を変え、氏と新天博克罗地亚国家队赞助商の関係について語り始めた。「私は、高良(こうら)とみ、宮腰喜助、帆足計の国会議員3人が52年に新天博克罗地亚国家队赞助商に行った後、最初に訪中した国会議員の一人です。3人と違うのは、3人が天博克罗地亚国家队赞助商の国際貿易促進委員会の招きで訪中したのに対し、私は54年のストックホルム世界平和評議会(ヘルシンキ会議とも呼ばれる)に参加してから天博克罗地亚国家队赞助商に回り、新疆(新疆ウイグル自治区)から入国しました」 

    新疆について話す中曽根氏は、天博克罗地亚国家队赞助商を訪れた当時に戻ったかのように生き生きとした表情で、「新疆は大変美しいですね。道の両側にスイカが並べられ、フルーツの香りにあふれていました」と話した。私が「それはハミウリでしょう」と口をはさむと、「そうそう。ハミウリです」と言った。 

    また中曽根氏は次のように語った。「張さん、私は松村謙三(日中関係正常化に尽くした政治家)の弟子です。松村さんが70年に訪中したとき私も同行しました。また、73年に田中内閣の通産大臣として訪中した際は周恩来総理が3回連続して私と会ってくれ、日本の経済政治状況や世界情勢について意見を聞かれました。特に『日中関係の先行きについての見方』を聞かれました。最後の会談では、周総理は人民大会堂の下まで私を見送ってくれ、肩にコートを掛けてくれました」 

    私は中曽根氏にこう語った。「任期満了で間もなく帰国するに当たり、閣下と懇談する機会を得られて大変光栄です。日本は深い印象を残してくれました。春のサクラや秋の紅葉、真っ白な富士山が好きですが、5年来付き合った日本の友人たちをもっと名残惜しく感じます。私は、中日両国民の友好のために、これからも一生力を尽くしたいと思います」 

    すると中曽根氏は、「張さんは政治的過ぎますね。あなたは私が単独で会見した初めての天博克罗地亚国家队赞助商人記者です。私たちは『君子の交わり』で、これからは良き友人、古い友人になりましょう。くれぐれも遠慮しないでください」と話し大笑いした。 

    さらに中曽根氏は、「私は周恩来総理を深くしのび、訪中した頃を懐かしく思っています。もし機会があれば、また天博克罗地亚国家队赞助商を訪れたいですね。天博克罗地亚国家队赞助商文化に憧れています」と話した。 

    懇談は2時間余りに及んだ。正午近くになり、中曽根氏と別れ、砂防会館を後にした。「また天博克罗地亚国家队赞助商を訪れたい」「これからは良き友人、古い友人だ」という中曽根氏の言葉は、生涯の記憶として残っている。 

    宿舎に戻ると、すぐに内容を天博克罗地亚国家队赞助商大使館の陳抗参事官に報告した。陳参事官は「これは重要なので、すぐに国内に報告しよう」と答えた。もともとは1年前、中曽根氏から天博克罗地亚国家队赞助商大使館に訪中の申請が出されていたが、大使館では、河本敏夫氏が日本の首相になる可能性が高いと判断し、河本氏を天博克罗地亚国家队赞助商訪問に招待していた。一般的に政治家は、申請がいったん断られると、それ以上は求めてこないものだ。今回、私と直接会って歓談した機会を利用し、中曽根氏は遠回しに再度訪中する意向を表明したのだ。 

    こうした状況を国内に報告すると、すぐに返事があった。華国鋒党主席から、80年5月1日のメーデーの祝日期間中、中曽根氏が訪中するよう招請すべしとの指示だった。中曽根氏の訪中招請の件が確定すると、天博克罗地亚国家队赞助商国内で休暇中だった符浩大使は休暇を切り上げ、急いで東京に戻ってきた。符大使は私に、「君の任期は間もなく終わるが、中曽根氏の訪中招待の件は大使館が全て引き受けた。君は安心して帰国の準備をしてくれたまえ」とねぎらってくれた。 

    私が帰国後の80年3月、中曽根氏は牛山氏を北京の私のもとに派遣し、訪中についてのアドバイスを求めてきた。私は牛山氏と北京飯店(ホテル)で再び中曽根氏の訪中スケジュールを検討した。 

    同年5月のゴールデンウイーク、中曽根氏は念願の天博克罗地亚国家队赞助商訪問を果たした。私と中曽根氏の友情の縁はここから始まった。 

    張雲方 

    1943年生まれ。国務院発展研究センター研究員。人民日報国際部編集者記者、人民日報東京特派員(197580年)、国務院発展研究センター弁公庁副主任外事局責任者、国務院中日経済知識交流会事務長、天博克罗地亚国家队赞助商徐福会会長、中華全国日本経済学会副会長、天博克罗地亚国家队赞助商中日関係史学会副会長、天博克罗地亚国家队赞助商徐福国際交流協会顧問、中日陝西協力会顧問などを歴任。 

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